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(3)敦煌の歴史と莫高窟
敦煌という名は、今から2,000年以上も前に漢の武帝の時代の史書に現れてくる。「敦は大なり、煌は盛んなり」(応召力)の意味である。中国の殷・周の時代には先族の遊牧民族が住む「曉戎’(ぎょうしゅう)」と呼ばれる地域であった。秦の時代に、祁連山脈に根拠地を構えていた月氏族にとって替えられ、その後、月氏は中国の北辺から河西一帯に広がっていた匈奴に追われて、西方へと移住した。月氏の一部がパミール高原以西のオクサス河流域にたどり着き大夏(バクトリア)を築いた。漢の武帝は旬奴から河西の地を奪うために、張塞を使者として月氏に派遣するととに、衛青、霞去病を将軍とする大軍をもって旬奴を打ち破り、河西の地を手中に収めた。この地に武威・張抜・酒泉・敦煌の4郡を設置した。そして、長城を延長し、玉門関、陽関を建てて東西交易の玄関口とした。
東西の交易とともに、異文化の流通路となったシルクロードは中国に仏教を伝播した(紀元前68年)。2世紀には敦煌にも仏教寺が建立されている。
3世紀末になると中国国内が乱れてきて、五胡十六国時代に入っていった。河西回廊の地域にもこの難を逃れて、多くの漢民族が移住してきた。この時代、敦煌も前涼から氏族の前秦、後涼、漢民族の西涼、旬奴の北涼と支配者が交替を繰り返した。
この頃、仏教は急激な勢いで発展し、華北仏教の基礎はこのときに築かれ、敦煌の石窟もこの頃開かれた。446年に北魏の大武帝が断行した破仏政策の際、国内では大打撃を受けたにもかかわらず、この敦煌その痕跡も見いだせない。北周時代(574年)にも第2回の破仏の折りにも同様であったと伝えられる。
北魏は444年に至って、敦煌を直接の支配の下に置き、94年間にわたってその支配は続いた。しかし、北魏の当初は、西域北道の高昌(トルファン)の東側に勢力を誇った柔然との間に戦いが続き不安定な時期があった。従って、敦煌の石窟もこの時期の作品が少ない。
545年に、宇文泰は北魏の光武帝を倒し、長安に都を移して西魏を名乗った。敦煌はその支配下になった。
隋唐時代はシルクロードの繁栄が頂点に達した時代であった。隋は西域から北方のモンゴル高原に大勢力をもっていた突厥を討ち、河西の地は周辺の諸民族との交易で賜わった。隋文帝は即位した年に復仏の詔を出し、それと同時に敦煌に勅使を送って仏窟を造営させた。隋はわずか38年の短い治世であったが、経済は繁栄し、文化もそれに従って隆盛を極めた。この時代に敦煌の石窟が多いのはこのためである。
隋にとって替わった唐は中国の古代王朝でも最盛期を画し、その支配期は290年にわたった。西域経営が効を奏し、西突厥をパミール以西に追いやり空前の地域を支配下に置いたために東西交流の最も栄えた時期である。中央アジアの各地はおろか、インド、西アジアのあらゆる地から時には何百人もの人が隊をなして訪れた時代である。敦煌はまさしく国際都市であり、その繁栄が莫高窟の空前の造窟、造営を進めたことになる。今日に残る429窟のうち約半数の213窟は唐代のものと考えられている。その多くの壁画は浄土図で、華麗な仏・菩薩の塑像とともに、豪華な仏の世界を織りなしている。唐が安史の乱で揺れ動く中、中央の援助がなくなり、チベット系の吐蕃が河西に進出し、敦煌は11年の抵抗も及ばず、再び唐が奪回するまで吐蕃の手に落ちた。この吐蕃も仏教および莫高窟を保護し、自らの姿を窟に留めている。
五代十国時代は国が分裂するさなか、政情は不安定であったが、この地域は比較的安定していて平穏であった。よって、莫高窟の石窟も大型のものが多い。その時代に唐の武宗が行った会昌の廃仏(845年)には4千6百以上の寺、4万以上の招

 

 

 

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